東京に戻ってきた私は、東京都中野区にある某不動産会社に就職しました。
某不動産会社では、空いている賃貸物件に寮として住めるという福利厚生があったことから、私は新井薬師に住むことになり、この時家から一番近いお店が味のマチダヤさんだったのは、お酒の女神に微笑まれたのではないかと今でも思っていたりしますww
中野の会社には社員食堂の調理場の募集をみて応募したのですが、色々訳があって結局配属先は調理よりも経験が長い事務で、調理課の事務員として再就職を果たしました。
ここでは主に、仕入や原価計算、メニューのポップ作りや食券の集計などを経験しました。今から思えば丸屋に嫁ぐ準備をしていたようにも思います。ここで数年務めたあと、やっぱり調理の仕事がしたいと心機一転、鯨肉のレシピ開発をする会社に転職を決め、新井薬師の寮をでた私は、偶然丸屋から徒歩3分のところにあるマンションの一室を借りることになり、それから間もなく自宅近くにある丸屋をネットで見つけ飲み友達を誘って丸屋を訪れることになりました。
主人の営む更科丸屋に初めて訪れたのは28歳の時だったと記憶しています。
カップ地酒が都内のお店で一律600円(当時)で飲めるというお店が自宅付近にあるということで友達を誘って行ったのが最初でした。
その当時、丸屋はまだ義父が経営していて、今と変わらず義父が蕎麦を打ち、主人が料理を作り、義母がホールに立つ家族経営の蕎麦屋さんで、料理と蕎麦は現在と変わりませんが、日本酒と言えば、カップ酒の他には、料理に特に合わせたとは思えない、スタンダードな銘柄が4?5本だったと記憶しています。最初のうちは、蕎麦屋さんだし、カップ酒がこれだけそろっていて安いのだから仕方がないと思っていましたが、
通うにつれてやはり、お酒に物足りなさを感じて、
『なんでこんなに美味しい料理作るのにお酒は適当においてるんですか?』
なんて言う直球ストレート、失礼きまわりない質問を主人にぶつけたのでした。すると、意外な返事が・・・
『日本酒は好きですが、良く知らないんです。』
と・・・・。
それから、美味しい料理には絶対美味しい日本酒が不可欠ということで、週末店が終わったころを見計らって夜な夜なガチな日本酒勉強会を開催しましたw
お店が終わると主人から連絡が来て、主人から連絡が来たら自宅にあるお酒を抱えて丸屋へ・・・深夜の蕎麦屋でおつまみとお酒を並べてお酒について語って試飲してということをしばらく続きました。
そのころは全く色恋沙汰もなく、真面目に日本酒のお勉強してましたよ。そんなことがあってからお付き合いをして結婚するまでにはまだちょっと時間がありましたから・・・。
でも、そんなご縁で、丸屋にだんだんと私の好みのお酒が入り、蔵の会を開催し、結局嫁に収まったわけですが、本当に酒の縁で自らが結婚にまで至ってるわけですから、お酒が良い縁を繋ぐと信じてやまないわけです。
うちの店で知り合ってご結婚されたり、友達になられたりしたお客様も酒縁だと思いますが、私の人生、日本酒が繋ぐご縁のお陰で現在の私があり、大好きな日本酒をお客様に提供させて頂けるポジションに付いたわけですから、本当に酒縁様様なのです。
花より団子。日本酒中心の独身時代?? 戻る 続く ⇒?丸屋の経営危機を救った私の経営戦略