もっと、美味しいや楽しいを大切にしたくて・・・

私には、お燗酒を好み、お燗酒をライフワークとするキッカケをくれた師が二人います。

一人は、酒のはしもとの正木社長。

正木社長との出会いは今から役14年位前、まだ正木社長がデパートのお酒売り場の担当をされていたころの事です。

私がブラジルから戻って、専門学校へ通いながらきき酒師の勉強をしている頃に知り合い、お酒のいろはを教えて頂きました。初めて、蔵元さんにお会いできる会に参加させて頂いたのも正木社長の企画されたもので、初めて蔵見学に行くきっかけを下さったのも正木社長のご紹介でした。

しかし、最初の出会いからずっと、お世話になっていたワケではなく、丸屋に女将としてお店に入って間もなく、とある蔵人さんに酒縁(ご縁)を繋いで頂き、丸屋がお燗酒を沢山置くようになる間で、色々相談に載って頂くことが叶いました。

正木社長は私に日本酒の知識と楽しむ感覚を教えて下さった師匠なのです。

そして、もう一人は、私の父です。父は私にお酒について何かを教えてくれたことはありません。ただ、父は私が物心つくずっと前から日本酒が大好きで、家でも外でも日本酒を飲むことで息抜きや、コミュニケーションをとってきたように思います。時には呑み過ぎて母を困らせたりもしていましたが、父が日本酒がご縁で繋がった人たちにお会いしたのは、父の葬儀のときでした。

父は本当にお酒が好きな人でしたが、お酒の知識はほとんど持ち合わせない人でした。お酒と名の付くありとあらゆるお酒を嗜み、会社帰りには一日も欠かさず、飲み屋に立ち寄らないと帰ってこないような、母や兄や私からしたらとても良い旦那さんでもなければ父でもありませんでした。

父は、お酒を呑み過ぎたことやたばこの吸い過ぎが原因で、脳梗塞を患い、障がい者となりました。

そんな父が晩年まで愛したお酒が日本酒でした。健康の為に、たばこをやめ、健康に気を使い生活を始めても尚、一日一杯のお燗酒はやめられなかったと母から聞いています。

父が亡くなったのは父が会社を退職してから3年位たったころでしたが、父の葬儀には葬儀屋さんがびっくりするくらい、父の知り合いの方々が来て下さいました。会社との繋がりはもうすっかりなく、長く闘病生活をしていて、会社の方々ともほとんど交流はなかったと聞いていました。しかし、父の葬儀の時に父の会社の方がもの凄く父の葬儀に見えられて本当にびっくりしました。

同僚の方から上司の方、父の部下だったかた、そして事務職の女性の方まで。そして、皆さん父には会社帰りに一緒に呑みに行った時に愚痴を聞いてもらってお世話になりましたとか、仕事で詰まっていた時に息抜きになりましたとか・・・父への感謝の気持を母に伝えて下さいました。

父にとって、お酒というのは頭で飲むものではなく、感覚で楽しむ嗜好品でありコミュニケーションツールであり、無くてはならないものだったように思います。

考えてみれば、私が日本酒に興味を持ち、好きになってからというもの、私と父の中はとても良くなりました。(それまでも悪くはありませんでしたが・・・)

父が行きつけの飲み屋に娘を連れて行き、娘は父というスポンサーを得るという感じでしたw

お酒を交えながら、家の話、仕事の話、母の話・・・色々としました。そして、いつも一緒に呑むときに父は私に『立派な酒は解るお前が飲めばいい、俺は味がわからんから、いつもの熱燗をもらうよ。』と.

父が元気でいるうちに自分もお燗酒が好きだということを自覚していなかった私は父と一緒に呑む頃はいつも冷酒をのんでいたからかもしれませんが・・・。

主人との結婚が決まって、家に連れて行った時も楽しそうに主人とお燗酒を呑んでいました。(兄が下戸だったのでうれしかったようです。)

父が日本酒を飲み始めたころと日本酒と今の日本酒はだいぶ変わっていることも事実ですが、美味しいものを単純に美味しくて楽しく飲める日本酒としてお酒を嗜んだ父を見習い、もっと沢山の人が気軽に楽しんで貰えるようにあまりうんちくに偏り過ぎず、まずは口にして楽しんで欲しいと思い、出張お燗番や、試飲会をやってみたいと思うようになりました。

沢山の知識がなくても日本酒は楽しめると音吐ているので、感覚で楽しく美味しく飲むことをご提案させて頂ければと思っています。

私が活動することで、一家に一本日本酒を置いて頂けたり、ビジネスのコミュニケーションツールとして気軽に楽しいお酒を取り入れて頂けたら、と思っています。